#1

猫

 走り始めて最初の夜、道の駅で猫に襲われ、ヤキトリとチキンラーメンを奪われた。猫がトリを食べることに違和感を覚えたけれど、同じ東屋の下に寝転がっていたS君が肉食だから当り前だというので、そう思うことにした。

 翌日、追いつかれないよう懸命にペダルを漕ぎ、渋川から三国峠を越えて寺泊まで百九十キロを走った。追ってくるのが猫かS君かは判らないけれど基本的に自分は人間嫌いであるし猫は食糧をとるので、何かと気が重いのだ。

#2

震災

 芭蕉が「五月雨をあつめて早し最上川」と詠んだ年は、今年と同じく長梅雨であったらしいと秋田魁新報に書かれていた。酒田で僕は「塩だれを搦めて旨し鶏の皮」と詠み、梅雨明けを祝って発泡酒とヤキトリを食いながら花火を見た。

#3

自由意志

 日本海に沿って数キロごとに現れる、小さな漁港と一軒の雑貨屋があるだけの村落を通過する度に、家を持つことの意味を考えた。何処に住むべきかを自分の意思で決定するのは非常に難しいことだと思う。

#4

青函

 津軽海峡の冷気をそのまま二等船室へ取り入れているのか、雑魚寝の人々はみな震え上がり、毛布の数が足りないために腕を半袖に仕舞いこんで表面積を減らしていた。函館は気温が十七度、風速は六メートル、湿度は八十八パーセント、これらの数値をミスナールの計算式に代入すると体感温度は八度であったらしい。それでも花火大会だった。

#5

鶚

 夏休みの正しい過ごし方はインドアで読書に耽ることだと思うのでつまり俺は誤っているのだけど、毎日少しづつ、カポーティの『冷血』を読み進めてはいた。旅行自体への興味が薄れていたのか、最北端で折り返したときに大した感慨は無く、但し笑ってしまうくらいにオホーツク沿岸は景観が佳いので、この頃は毎日が愉快だったように思う。

#6

サロマ湖

 レンズにY2フィルターを着けていた為、いつも若干暗めの黄ばんだ景色を見ていた。ここから彩度を抜くとさらに暗い絵になる。紋別から網走にかけての数日間は実際には眩し過ぎるほどの日々で、気温は三十四度に達した。僕は監獄博物館で倒れそうになり、湖畔のテントに戻ると発泡酒を呑み、余計に体が火照って身悶えた。

#7

野付半島

 長さ三十キロメートルの砂嘴、野付半島の中程まで走った。サイトにトンボロと名付けたように僕は砂州や砂嘴のたぐいが好きで、ゆえに野付を目的地と定めて一年間を過ごしてきたといっても差し支えない。半島の先端にはかつてキラクと呼ばれる歓楽街が在り、武家屋敷が並び、遊郭や鍛冶屋までが在ったという伝承がある。出漁基地が在ったことは確かだが他はフィクションである説が強いらしい。実際、遠浅の海に砂礫が堆積しただけの土地にそれらが在ったとは信じ難く、現在も相当の速さで半島の形状が変わりつつある。

 この頃に漁船拿捕の件があり、国後島の古釜布に連行されていったのだけど、海峡の対岸にある標津町では、ラジオのNHKニュースを聴きながらバターピーナツを食べていたりした。トリスのポケット瓶もぐいぐい飲んでた。

#8

経路図 (クリックで拡大)
 予算を使い果たして帰宅の途についた。米と鯖缶で過ごした一ヶ月、時々入る食堂では注文してないものが出てきて、苫小牧では烏賊の唐揚げと茹でトウキビ、雨と濃霧の日勝峠では温かな牛乳、これらをなんだか素っ気ない表情で出されると嬉しいのか傷ついたのか判らない感情になる。ただともかく旨かった。

 妙な意味での向上心なのか峠越えが好きになって、毎時七キロの速度で登り、雨でいつスリップするか判らない道路を五十キロ超で駆け下りる。旅行中の睡眠は五から七時間程度で、どこから体力が涌いていたのやらと思うけれど、そういえば道路を主とした視界は疲れ眼のせいか黄色に霞んでいた気はする。いや、フィルターのせいか。

 実家に着いた翌日にはもう安全帯を腰に着けて高所作業のバイトをしていた。九月に自宅へ帰ると新聞配達を始め、毎朝一時半に出勤、六時に退勤、九時から十八時まで学校、十九時に就寝というような生活になった。それは今も続いていて、暇を見つけて本を読み、根菜と納豆に偏った食事を作り、一応は生きているけれど目的を見失って錯乱するときも時々ある。人はこんなに働く必要は無いように思われる。現在はソローの『森の生活』を岩波文庫で読んでいて尚更そう思う。矛盾を感じつつパソコンの壁紙をDalton Highwayに替えた。