再見

先に身体と顔と視線に出会ってから、精神というか、主体に出会う道筋とは順番が違うだけだといえるが、もし出会いが道半ばで終わったときは、残されるものが違う、そういうことだと思う。他者から出てゆく道にいろいろあるように、他者への入り方にもいろいろとあるのだ。来し方、行く末。

坂のある非風景 他者への入り方

 送別会では六名の同僚が集まってくれて、スキヤキをご馳走してもらった。本当は「お好み焼き」が食べたかったのだが「好き焼き」でも大して差違はなく、入っているのが豚コマか牛かという違いくらいだ。同僚たちを撮らせてもらおうとカメラを用意していたが、話しているうちに写真はどうでもよくなり、空腹も充たされて、多少は落ち着いたような気がした。食事のあとには、ヘーゼルナッツ風味のコーヒーと菓子を贈られた。今まで無縁の飲み物だったから味は知らないけれど、きっと旨いんだと思う。フレーバーコーヒーの味が判らないのと同じくらい、同僚たちは俺の内面については何も知らない。顔だけを決して忘れないままに彼らとは別れる。

 写真屋を退職した今日は、同時に、会社が消滅する日でもあった。某社に買収されてから三年近くは持ち堪えたけれど、ついにこういうことになった。あとは社員の人々の待遇がこれからどうなっていくか、店は存続するのか、という話になるけれど、自分はもう関わることができない。「ついに」を漢字で書けば「遂に」または「終に」だが、べつに終わった訳でもなく、社名とか屋号とは別れたというだけだ。

 お客さんからは今日も沢山の話を聞かされた。七十代と思われるお爺さんはフィルムの話をしていたはずが石油化学について語り始め、灯油とジェット燃料の組成がだいたい同じだとか、原油価格の指標となるWest Texas Intermediateとか、故事成語「出藍の誉れ」とか、迷走しながらも途絶えることなく語り続けた。いつまでも聞いていたいと思ったが、そうもいかない。夕方にはまた別の七十代の常連客から東南アジアで撮った写真を見せてもらい、今日で辞めますと伝えると、なぜか一箱のチョコレートを渡された。それを食べながら、今、ブログを書いている。

 ブログを「続ける」とは、どういう意味なのか、と考え始めている。たとえば生活を記録するlifelogとか、読書を記録するbooklog、写真を載せるphotologなどはあるけれど、さて、自分は何やってんだろうなと考えたとき、どこへも分類されなかった。書いていることは出鱈目だし撮っているものは滅茶苦茶じゃないか、と、やさぐれたい気持になり、それもまたこうして書いている訳だけど、本当に俺は何をしたかったのか、何になりたいのか、などと自意識の枠から逃れることができずにぐるぐる廻っているから、他者に対しての思いやりなんて無いし、人に優しくはない。それでも構わずに、続くものは続いていく。

 別れるためには出会う必要があり、自分が存在するためには他者が必要だが、これは光と闇のような二項対立ではなくて、ただ、二つが一組みになっているだけだ、と年の瀬になってようやく理解できた。あるいは誤解かもしれない。ブログを続けるのは思考と試行のためで、何も発見と呼べるようなものはなく、だからユリイカと叫ぶことはできない。新しい考えと出会うためには、古い考えと訣別する必要があって、サヨナラだけが人生だと呟き続けるのがブログかもしれない。井伏鱒二。

 何を言いたいのか解ってもらえないと思うけど大丈夫。書いている俺にもまったく理解できない。七年以上もこの場所で書き続けていながら誰にも理解されていない、と卑下する必要はないし、ある程度は伝わっていると思うのですが、そもそも本当に人と出会うとか他者を理解するっていうのは、どういう状態なのか解らない。とりあえず自分の顔とサンタ姿を載せてみる。初めまして。

 副店長からはレンジファインダー機のRollei XF 35をもらった。こんな高価なものをどうして、と思ったけれど有り難く頂戴し、帰宅してから、電池室の蓋が無いことに気がついた。どうにか使える状態へ持っていきたいけどメーカーにはもう部品がないだろうな。電池をセロハンテープで支えれば動くだろうか。

 体調がすぐれないとか気分がよくないとか、物事を放り出したくなるときは多々あって、もしくは自分の場合、周囲で起こったトラブルに巻き込まれて立ち行かなくなることも多いんだけど、もうやめてもいいのか、まだ耐えられるのかと考えて、とりあえずはやめないことにした。渡されたチョコを食い、コーヒーを飲み、カメラを使う。どうしてブログを続けるのかという問いが、自分にとっては、なぜ生き続けるのかという問いと同義になっている。昨日から今日にかけて受け取ったものが、渡されたというより、託されたものだと考えていたい。すでに自分ひとりのものではないブログとなっている。

 あと二時間ほどで年が変わるというときに、制服から着替えないままで俺は何をごちゃごちゃ書いてんだろう、と不思議に思っている。えーと何が言いたかったんだっけ。記事の最初にMさんの記事を引用したのは、他者と出会う方法について、何らかのヒントがあると思ったからだった。正直に言えば、普段からMさんの書いていることを半分も理解できない。だから読み解きたい、考えたいと思ったのでした。

 他者という概念も解ってはいないのに、他者と向き合えるはずがなく、カメラを向けるより先に、すべきことが沢山あるように思った。自分で自分を振り回し続ける日々から離れ、受け取ったものの意味について、じっくりと考えたい。他者を理解するなんて言うより先に、出会わなければいけない人々が沢山いるような。来年はそういう方向に進んでみる。

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