多分20081222
妙に、やさしさが、心にしみた。熊野の寺や神社が、苦労を背負っておまいりに行くと、杖か、木端か、そんなものでぶったたき「そんなことを苦だと言ってどうする、そんなに弱くてどうする」と一喝する感じなのに、この、信濃の善光寺は、一緒に涙を流し、うん、そうかそうかと、身におこった苦の話をきいてくれる感じがする。ここは限りなくやさしい。一番底の底で、涙を流してくれる。
十代の中頃に、信濃の善光寺へ行き、二百円のおみくじを引いて、百円だけを箱に入れてきたことがある。今となっては状況をよく思い出せないのだが、それが財布に入っていた全てだったことは覚えている。あと何年かしたら必ず戻ってきて、こんどは三百円を入れてやるからな、と心のなかで呟いていた。いつかここへ戻る理由を作るために、おみくじを引いたのだと思った。だから僕は死ぬまでに一度は長野へ旅行に行かねばならないのだが、二十代の半ばとなった現在、まだ早い、あと五十年は猶予がある、と思っている。
多分、俺は他人に対して、善光寺のような優しさを求めていたんだと思う。八年前に起こった事件から現在までの経緯を、誰にも話さないことで自分自身を保ってきたけれど、時々、圧し潰されそうになる。このサイトを始めた十六歳の頃というのは、何もかも真暗だったのだが、十名、二十名と少しづつ読者が増えてきて、幾つかの優しい言葉をもらい、少しづつ立ち直り、ようやく普通の生活に手を伸ばせそうな気がしている。
届きそうで届かないものがあって、さらに手を伸ばしたときに手が届くのか、足を滑らせて川に落ちるのかとつまらないことを考えていた。数年前から時々受け取る感想に、希望をもらった、あなたは優しい、なんてものが散見されたけれど、そうしているあいだにも俺は川に流されているような気がしていた。言葉だけではなくて直接、手を伸ばしてほしいと思っていた。
だけどネットというものは手を伸ばせる仕組みになっていないから、言葉を介したコミュニケーションしかできない。人に触れたいと思うなら、このサイトで文章や写真を載せるだけに留まらず、部屋の外へ出て行かなければならない。自分が元気を取り戻すために人と会いたいというのは、独り善がりかもしれないし、誰のためにもならないんじゃないかと思う。それでも俺は人を必要としていて、どこへでも出かけて行きたい。
年が明けたら東京の自転車屋で働き始め、同時に、人々の写真を撮らせてもらいたいと考えている。どこへ発表するあてがある訳でもないが、人と会って話がしたい。人様の顔をこちらへ向けてもらい、写真に収めるときには、当然、自分の顔を相手に向けることにもなる。写真を撮らせてもらう勇気というのは、自分の顔を世間に晒すときの勇気とあまり変わらない。今年の大晦日、ここにセルフポートレートを載せる。すでに写真は撮ってあるが、うまく笑顔が作れなかったばかりか、眉間に皺が寄っている。今はそれでも構わない。
いつか、多分、きっと、などの曖昧な言葉では安心を得られない。今はただ胸の痛み(胃痛ともいう)を堪えながら、街へ出かけて行き、人と会い、話をして、誰もいない部屋へ持ち帰るしかない。他人など頼りにはしないという態度と、他人に全力で頼っていくという態度を共存させることになる。それを優しさと呼ぶのかどうか判らないが、多分、希望なんだと思う。
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自分も旅をしている癖に人の写真が少ない。これも自分の人との距離の取り方の問題であって、自分も次からは、恐れる事無く人も撮っていきたい。
2008/12/22 22時40分 shuutak URL人を撮らせてもらうとき、写真は「距離」の問題になりますね。遠くから恐る恐る望遠で撮るか、それとも近付いて撮るのか。俺はできるかぎり、相手に恐がられない程度に、近付いていきたい。適切な距離感を掴んで、仲良くなりたい。
2008/12/23 0時43分 Yuki URL