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 昨日、仕事から帰って、ぼんやりテレビを観ていると、南米のパンタナール湿原が映し出された。雨季には川から溢れた水が湿原全体に薄く広く行きわたり、それは壮観な眺めとなるけれど、今は乾季だから所々に小さな池が残されているだけだ、と現地のガイドが解説している。幅が十数メートルの池に無数のホテイアオイが浮かび、葉と葉のあいだからワニが顔を覗かせ、レポーターの男が大げさに驚いてみせた。この小さな池には百匹を超えるワニが棲んでいるんですよ、凄いですねえ、と嬉しそうに話していたのだけど、僕が考えていたのは全く別のことだった。言葉遊びのような、連想ゲームのような話だけど、ワニに点を付け足せばウニとなる。この小さな池には無数のウニが棲息していると言われれば確かに驚かざるをえないが、ワニが棲んでいることに何ら不思議はない。そしてウニから連想したのは、宮沢賢治と、ドリアン助川だった。

 読者の皆さんは多分嫌いだろうというか興味ないかもしれないですが、僕はドリアン助川が好きだったりします。名前からして明らかに胡散くさいし、何をしている人なのか、何がしたい人なのか解りづらい。一応、叫ぶ詩人の会が解散してからは名前を明川哲也に変えていて、相変わらず小説書いたり音楽やったり、人生相談も受けている。テレビやラジオへの露出は今やほとんど無いものの地道に活動を続けていて、最近では『オバケの英語』という語学の本が売れたりもしていた。

 数年前に『食べる ― 七通の手紙』というエッセイを読んだ。この本の冒頭では、オホーツク海の沿岸を旅する明川哲也が、殻を割って取り出したばかりのウニを頬張りながら、宮沢賢治の詩『春と修羅』を引用している。

これらについて人や銀河や修羅や海胆は
宇宙塵をたべ または空気や塩水を呼吸しながら
それぞれ新鮮な本体論もかんがへませうが
それらも畢竟こゝろのひとつの風物です

 人や銀河や修羅はいいとして、なぜ、ウニを同列に並べたのか、宮沢賢治よ、と明川哲也が語りかけていた。しかしドリアンという果物だってウニみたいに棘だらけじゃないか、という話でもなく、それではどう繋がっていくかについては本を読んでもらったほうがいい。題名に「七通の手紙」とあるとおり、七種類の食べ物によって媒介されながら、七名の人物に宛てて書かれた手紙という形式をとっている。特に強烈な印象を残したのは「塩」を題材としてポル・ポトに宛てた手紙だった。この内容について僕が友人にメールを送ったところ、「吐きそう」と返事が送られてきたことがある。

 最初に書いたウニの話、じゃなかった、ワニの話に戻るけれど、雨季になって川や池から水が溢れたときには、大湿原のどこへでも移動することのできるワニが、乾季には小さな池に閉じ込められている。一方、水が退こうと溢れようと何も変わらないようにみえるウニが、実際には閉塞感をかかえたり、何かを思考することがあるのか、またはどこへでも移動できたりするのか。そんなどうでもいいことを考えているあいだに番組は終わっていて、もう一度、明川哲也について考えを巡らせた。

 彼にとって名前とは殻でしかなく、果物のドリアンから殻を剥がすように名前を改めることはできたが、結局、助川哲也という本名から完全に離れることはなかった。殻を割られたウニが生きてはいられないのと同様に、ドリアンの殻は未だどこかに引っかかっている、と思う。

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