記録と記憶

 川沿いの道路に、市町村名を延々と書き続けている人がいた。前日に北海道稚内市から始めて、俺が話しかけたときで千葉県木更津市まで来ていた。最近では平成の大合併のせいで移り変わりが激しく、覚えなおすのが大変だよ、と言っていた。つまり、二千近くある日本の市町村をすべて暗記しているらしい。

 自転車の前カゴから取り出した新聞記事のコピーを手渡された。数年前に大工の仕事を辞めてから、市町村名、歴代総理大臣、四字熟語、アメリカの州名等々を大量に暗記しては、この道路に書き付けている。

 この人と出会い、別れてから、なぜかひどく不安定な気持になった。何週間かサイトの更新をやめてしまおうと思ったのだけど、今またこうして十日と持たずに書き始めている。自分が今までに新しいことを覚えたり、書き綴ったりしてきたのは、解らないことや不安なことについて答えを探したり、あるいは覆い隠すためだったけれど、いつかは答えが見つかって穏やかな感情になれるものと思っていた。感情の起伏がなくなり、大して楽しい出来事も起こらないが、悲しいこともあまりない、そうなればいいと思っていた。でも、この人は七十代の半ばになって未だに新しいことを覚え、書こうとしている。いつになったら終わるんだろうか。

 明日世界が終わるとしても私は今日リンゴの木を植える、という言葉を思い出した。自分の仕事が「残る」ことに意味があるとすれば、リンゴの木を植えることや、市町村名を書き続けることには意味がなく、何もせずに家で昼寝でもしていたほうがいいだろう。だけど、この人が書いているのは後に残すためではなく、現在、他人と繋がっていたいからだ。多分、感情の起伏がなくなり、大して楽しい出来事も起こらないが、悲しいこともあまりない、そのような生活には耐えられないだろうと思う。不安定であることを避け、書くことをやめて部屋に籠ってしまえば、俺のような人から話しかけられることもなかった。

 だから新しいことを覚えて記録し続けることには意味があり、記憶している必要はないと思った。

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