物事20080918
仕事について昨日から考えている。大学の通信教育部を卒業するまで今のバイトを続けるのか、または、学業を続けながら正社員として就職するのか、あるいは、他に何か方法があるのかどうか。二年後か三年後には考えよう、と問題を先送りしていたことについて、昨夜、それでは手後れになると覚った。仮に、大学を卒業できずに二十代後半で世間に放り出されたとしたら、何の特技を持ってもいない僕が、何者になれるだろうか。
薄々と気付いてはいたけれど、僕がいつか何者かになりうる、というのは不確かな幻想でしかない。僕はこのまま何も変わらないというところから始めたい。自分から生み出される言葉や文章が移り変わったとしても、結局、一人称の自分からは離れることができない。自分が変わらない、離れられないということの強固さが、快いのだと思った。
たとえば印刷工場で働く自分を想像している。朝から夕方まで印刷機と向き合い、入稿されたデータと、出力される大量の印刷物とを見比べる。僕自身は何も変わらないのだが、情報という不確かなものが変換されて、物質となる過程を見届ける。それが絵本であるのか雑誌なのか判らないが、印刷物として据え置かれるものになり、誰かの手に触れることになる。この一連の流れが、多分、快い。
だいたいどんな仕事であろうと、ある物質に対して付加価値を与えることで成り立っていると思う。その付加価値が無意味でさえなければ、僕はどんな仕事に就いてもやっていけると考えている。逆に言えば、訴求できるのが単に安値であるというだけだったり、価値を付加することが許されていない状況では、きっと長くは続かない。
何気なく価値という言葉を持ち出してみたが、ふと、自分には存在価値があるだろうか、と面白みのない問いを思いついた。そんなものは初めからなかったし、多分、これからもないんだけれど、価値や意味のない自分というやつが、物事に意味を見出そうとしたり、価値を生み出そうと試みている、この状況が僕にとってはただ快いのだと思った。物が在ることと、それについて語られることが切り離されているから、僕は書き続けることができる。
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