自転車で出せるだけのスピードこの記事を はてなブックマーク に追加この記事を はてなブックマーク に追加

 昨日から今日にかけて自転車関連で知った、対照的な二つの出来事がある。一つは、ランス・アームストロングが三十六歳にして現役復帰するという報道。来年のツール・ド・フランスに出場して八度目の総合優勝を目指すという。そしてもう一つは、競輪選手の内田慶が、レース中の事故により亡くなったという報道。

 アームストロングが一度は精巣癌によって死にかけながらも厳しい化学療法によって奇跡的な復活を遂げ、ツール・ド・フランスにおいて前人未到の七連覇を達成、そして今度は二度目の復帰を目指そうとしている。一方、内田慶は怪我と闘うことさえ許されずに、転倒から数時間で亡くなってしまった。

 今まで僕の自転車に対する興味は専らツーリングのほうに向いていて、競技についての知識をほとんど持っていなかった。聞いたことのある選手といえばアームストロング、インデュライン、中野浩一だけでしかなく、亡くなった内田慶のことは報道によって初めて名前を知った。無論、彼が競輪においてどのような活躍をしていたか知らないし、事故が起きるまでのレース展開についても何一つ知らない。唯一、顔を強打して動けなくなったという最期だけを、新聞記事によって知らされている。

 トラックレーサーと呼ばれる自転車にはブレーキがついていないこと、フリーホイールもついていないこと、最高速度は時速七十キロに達すること、足はペダルに固定されていて自分では外せないこと、競輪について僕が知っている事実といえばこのくらいだ。安全のためにヘルメットを装着しているとはいえ、高速で転倒すれば致命傷を負うことは判りきっている。この危険性については競輪に限ったことではなく他の自転車競技も同様で、たとえばツール・ド・フランスなどのロードレースでは、ガードレールのない崖っぷちの道路を、時速百キロを超える速度で駆け下りるときがある。命が幾らあっても足りないほど危険と隣り合わせの競技に、身一つで自ら飛び込み、または投げ込まれている。

 数百から数千キロを走破するロードレースにおいては、常に先頭を走り続けることが必ずしも重要ではなく、総合優勝のために全体を見据えた戦略を考える必要がある。一方、周長四百メートルほどのトラックを周回することで争われる競輪は、僅か数分のあいだに目まぐるしく状況が変わり、そこには選手たちの思惑だけでなく、車券を買った人々の声が投げ込まれる。布を張ったバケツに放り込まれたベーゴマのにように、狭いところで体を擦り合わせながら戦わされている彼らが、事故によって弾き出されたとき、誰が受け止めるのか。

 少しのあいだ競技の話から離れて、僕自身が関わってきた自転車のことを書きたい。この文章の最初に付した「自転車で出せるだけのスピード」という言葉は、ある曲のタイトルから借りている。そして僕が自転車に乗り始めた八年前から昨年まで、ずっと追い続けてきたことでもある。自転車用のスピードメーターを取り付け、車道の真ん中に出て、長い下り坂をトラックやオートバイなどと並走していた。軽快車では時速五十六キロ、ランドナーでは時速六十四キロ、マウンテンバイクでは時速七十八キロを出した。もしも転倒すれば確実に死ねるとは解っていながら、速度を抑えようとは考えていなかった。ただ、自分の脚だけでは決して届かない、車輪に頼らなければ出すことのできない速度に達したとき、その向こう側に何か見えるものがあると確信していた。生き急いでいた訳ではなく、死にたかったのでもない。スピードを追い求めていれば達することのできる境地があると考えていただけだ。

 アームストロングがの復帰が「癌に対する社会の関心を高めるため」というのは半分くらい本当かもしれないが、しかし口実に過ぎないんだろうと思う。自転車に乗りたいから、再び乗り始めるだけだ。有り余るほどの賞金と栄誉を手に入れた彼にとっては、無報酬でツールに参加するなどは大したことでなく、逆にいえば、自転車から降りてしまっては生きていけない、ただそれだけのことなんだろう。脚の代わりに車輪があり、心臓を補うための太腿を持つ彼らは、血を巡らせるために断えず走り続ける必要がある。一度走り始めてしまえばクランクの回転数が限界に達するまでは加速を止めることもできない。

 落車して亡くなった内田慶と、癌を乗り越えて走り続けているアームストロングと、車道を猛スピードで駆けていた僕が、実際の走行時には生死に関わる危険についてなど考えは及ばずに、ただ走ることだけを考えていた。言い換えれば、生きること以外には考えもしなかった。死について考えるのは死にかけたときだけで、アームストロングの場合はそれが癌だったし、僕の場合は交差点で軽トラックに撥ねられたとき、そして内田慶の場合は接触して前方に弾き飛ばされ、顔面からバンクに叩きつけられたときだっただろうか。

 多分、競技の安全性について配慮できるのは主催者側でしかなく、選手は規則の範囲内において走り続けるだけだ。誰もスピードを緩めるはずはないし競うことを止めることもできない。「自転車で出せるだけのスピード」のあとには「風さえも追い越した気がした」と続いているが、どれだけのスピードに達すれば風と並走できるのか、向かい風のときにはどうすれば、と考えてしまうと、これ以上、彼らを追って走ることはできない。自転車に取り付けていたスピードメーターは外してしまった。彼らが相変わらずの猛スピードで遠ざかっていくのを見送るほかない僕には、結局、彼らが到達しようとしている場所の在り処を知ることもない。それでも構わないと思う。

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