喫茶難民20080807


以前、北海道の釧路にいたとき、市街地の公園に泊まろうとしたら人々で溢れかえっていて、何事かと思ったそのときに大きな赤色の花火が「ちゅどん」と上がり、疎らな歓声と拍手が上がった。本当なら周囲の人々と一緒になって花火大会を楽しめれば良かったのだが、僕はどういうわけか塞ぎこんでいて、国道沿いの大きなネットカフェに逃げ込み、朝までYouTubeなど観て過ごしていた。一睡もできなかった。
世間には畳に横になれて毛布など使えるネットカフェもあるらしいけど、ほとんどの場所はせいぜい座席が倒れる程度で、朝まで熟睡するにはとても向いていないと思う。それでも人々がここに寝泊りするのは、なぜだろうか? かつては天井から床までの完全な扉によって区切られている店もあったけれど、風営法に触れることから、今では小さなカーテンや扉が付いているだけだ。飲み物を好きなだけ自由に飲めるとはいっても、人間の体が吸収できる水分には限度がある。ネットを好きなだけ自由に使えるとはいっても、ネットには制約があって無制限の自由などない。一坪程度の狭い空間では、そもそも身体的な自由がないだろう。
一般論ではなく僕自身の話でいえば、ネットカフェに行くのは、そこに行けば誰かがいるからだ。誰とも話すことはないけれど、仕切り壁の向こうには本を読んでいたりテレビを見ていたりする誰かがいて、氷の入った紙コップを揺する音までが聴こえる。僕の存在もまた向こうに知られている。経験は無いけれど、もしも何かをやらかして留置場に放り込まれたら、こんなふうに隣人に対して親近感を持つだろうかと思う。訳ありでこんな狭いところに押し込められているが、いつか広いところに出て行く、と架空の決意を固めたりなどする。
長く寝苦しい夜が明けて、ナイトパックの切れる早朝に、精算して店を出る。カウンターにいるのは若い兄ちゃんだったり姉さんだったり、あるいは写真のようなおじさんだったりする。彼らはみな一様に優しそうだが眠そうな顔をしていて、僕のような難民たちが店を出入りするのを夜通し見張っていた、あるいは見守っていたのかと思い、ふと優しい気持になったりする。午前六時四十分、店を出るときに「写真撮らせてください」と頼み、ファインダーを覗きながら、この人はどんなふうに僕を見ているだろうかと考える。
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