机の広さ

 サマージャンボ宝くじを一枚だけ買った。先月で二十四になったのだが宝くじを買うのは初めてのことで、何と言って買えばよいのか判らず、けれども駅前の売店に行って「サマージャンボ一枚ください」と言ったら、至極当り前のことだが何事もなく買えた。これは神社のオミクジみたいなもので、大吉が出なくとも、多分、引くこと自体に価値がある。何も当らなければ「真面目に勉強せい」というお告げであろうし、何かしら当ったとしても「調子に乗んなボケ」というお告げであろうから、いずれにしても真面目に勉強しないといけないんだろうな。

 某大学通信教育部文学部地理学科の人々と名古屋で会って一緒に飯を食ったり話したりしたこと、名古屋へ行き着くまでに見聞きしたたくさんのことは、安易に書き散らかしたりせず自身の中でゆっくり消化すべきことだな、と考えた。過ぎ去ったことを省みて書けるほどに俺は成熟してないつうか、山積みになっている「新しいこと」を仕入れて消化しないことには、いつまでも年をとれないような気がする。未だに自分では十九歳くらいのつもりでいて、年をとった実感のないままに年月だけが過ぎ去った。

 引率の大学教授が「卒業できればいいな、じゃなくて、卒業しましょうよ」と言っていた。通学課程において卒業するよりも何倍か困難なことを承知で通信教育部に移り、案の定というか何つうか、自堕落きわまりない生活をしてきたけれど、何とかして二十六歳までには卒業できればと思う。こればかりは、たとえ三億円が当ったとしても誰かがどうこうできる話ではない。逆に言えば、机に向かえばいいだけのことだ。

 広い空間を求めて闇雲に走りまわるより、机上からどこかに繋がる「広さ」を理解して、机に向かえたならいいけれど、未だ理解できたとはいえない俺は馬鹿だ。一枚の紙切れがもしかして三億円に化けるかもしれない、それと同程度の可能性のように考えているらしい。現地研究のレポートを書き終えたら、間を置かずに地図学のレポートに取り掛かる。机に載せられた地図の広さを理解するのが第一に必要なことだ。自分が今まで見てきた世界より遥かに広いはずだけど理解できない。

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iso1600

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喫茶難民

 以前、北海道の釧路にいたとき、市街地の公園に泊まろうとしたら人々で溢れかえっていて、何事かと思ったそのときに大きな赤色の花火が「ちゅどん」と上がり、疎らな歓声と拍手が上がった。本当なら周囲の人々と一緒になって花火大会を楽しめれば良かったのだが、僕はどういうわけか塞ぎこんでいて、国道沿いの大きなネットカフェに逃げ込み、朝までYouTubeなど観て過ごしていた。一睡もできなかった。

 世間には畳に横になれて毛布など使えるネットカフェもあるらしいけど、ほとんどの場所はせいぜい座席が倒れる程度で、朝まで熟睡するにはとても向いていないと思う。それでも人々がここに寝泊りするのは、なぜだろうか? かつては天井から床までの完全な扉によって区切られている店もあったけれど、風営法に触れることから、今では小さなカーテンや扉が付いているだけだ。飲み物を好きなだけ自由に飲めるとはいっても、人間の体が吸収できる水分には限度がある。ネットを好きなだけ自由に使えるとはいっても、ネットには制約があって無制限の自由などない。一坪程度の狭い空間では、そもそも身体的な自由がないだろう。

 一般論ではなく僕自身の話でいえば、ネットカフェに行くのは、そこに行けば誰かがいるからだ。誰とも話すことはないけれど、仕切り壁の向こうには本を読んでいたりテレビを見ていたりする誰かがいて、氷の入った紙コップを揺する音までが聴こえる。僕の存在もまた向こうに知られている。経験は無いけれど、もしも何かをやらかして留置場に放り込まれたら、こんなふうに隣人に対して親近感を持つだろうかと思う。訳ありでこんな狭いところに押し込められているが、いつか広いところに出て行く、と架空の決意を固めたりなどする。

 長く寝苦しい夜が明けて、ナイトパックの切れる早朝に、精算して店を出る。カウンターにいるのは若い兄ちゃんだったり姉さんだったり、あるいは写真のようなおじさんだったりする。彼らはみな一様に優しそうだが眠そうな顔をしていて、僕のような難民たちが店を出入りするのを夜通し見張っていた、あるいは見守っていたのかと思い、ふと優しい気持になったりする。午前六時四十分、店を出るときに「写真撮らせてください」と頼み、ファインダーを覗きながら、この人はどんなふうに僕を見ているだろうかと考える。

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白い空

 原付免許を更新するために、鴻巣までの往復八十キロを自転車で走り、久々に心の底から「楽しい」と思った。暑いときは暑い、寒いときは寒い、日が照れば焼ける、雨が降れば濡れる、二十代のあいだはそんなふうに翻弄されていたい。普通自動車免許は三十五歳までに取ればいいや、となんとなく考えている。

 図書館でユージン・スミスの写真集『水俣』、丹野清志『コンパクトカメラ撮影事典』を借りてきた。最近はデジタル一眼レフと、フィルムコンパクトで撮る機会が半々くらいになっている。近い将来、写真屋のミニラボから現像機が消え、気軽にはフィルムで撮れなくなる。べつに焦る必要はないけれど、今のうちに撮っておかないと。

(23時10分 投稿 / コメント+トラックバック 0 件)

夏を終える

 部屋が暑いので散歩でもしようかと考えていると雹まじりの雨が降り始めて、午後二時に三十一度あった気温が、午後三時には二十二度まで下がった。雨が小降りになるのを見計らって買物に出ようとした途端、こんどは強い横揺れに見舞われた。震源地を確かめようとテレビを見ていたあいだに再び雨が降り始める。外出を諦め、部屋でコーヒーを淹れて、漫画を読むことにする。菊池直恵『鉄子の旅』全六巻(小学館 IKKI COMIX)。

 写真のコーヒーバネットは登山用品店で買った物、チタンのカップは人からの貰い物。本当は屋外でコーヒーを淹れるための道具だけど、折り畳めて嵩張らないうえに、洗うのが簡単だから重宝している。余分な蒸気を飛ばせるからネルドリップに近い味になるとか言われているけれど、ネルドリップで淹れたことがないんで、よくわからない。

 あと何回の雨が降れば夏が終わって秋になるだろうか。アキアカネが飛び始める頃か、コオロギが鳴き始める頃か、あるいはセミが鳴き止んで路上に転がる頃なのか。季節は切り替わるものでなく、移り変わるものだと解ってはいるが、どこかで区切りを付けるとするなら、それは個々人の判断によるところが大きいように思う。少なくとも俺のなかでは今日で夏が終わり、初秋に差し掛かっている。去りつつある季節を名残惜しむよりは、先取りしたほうが幾らか気が楽だ。これが本当の「進取の気象」。

 はてなダイアリーキーワード アキアカネ の項に「羽を取っても柿の種にはならない」とあるのだが、いまの十代や二十代の人々に赤とんぼの唄は知られているのだろうか。

(19時19分 投稿 / コメント+トラックバック 0 件)

部屋と猫

 NHKアーカイブス ターシャからの贈りもの を見た。普段はテレビを見ることなどあまりないのだが、朝の十時ごろに寝ぼけて電源を入れるとターシャ・テューダーが映っており、そのまま蒲団にくるまって八十分間の番組を見てしまった。今日は昼過ぎになっても気温が十月上旬並みの十八度しかなく、けれど白い空から雨粒が落ちる気配もない。夏のあいだは室温が四十度を超えて蒸し風呂のようだった僕の部屋にも、やっとのことで平穏が訪れた、としみじみ思う。

 窓の外から猫の鳴き声が聴こえて、どこにいるのかと玄関の扉を開けると、扉のすぐそばに寝転んでいた猫が慌てて階段を駆け下りていった。どうせすぐに戻ってくるだろうと思い、プランターの土のうえにエサを置いた。三分ほど待って扉を開けてみると、エサは持ち去られていて、階段の下から猫がこちらを見上げている。

猫

 部屋とネットと俺と猫 を書いてから、猫と出会うまで二ヶ月も掛かった。さらに時間をかければ距離を縮められるのか、撫でまわすことができるのか、あるいはこれ以上に野良猫と近付くことは意味があるのか。部屋に猫を招き入れることが禁じられているのは、畳に爪を立てられては困るから仕方がないとして、せめてベランダで触れ合えればいいのか。ターシャ・テューダーのように広い庭でたくさんの動物と触れ合えたなら、どんなに楽しいかと思うが、ターシャの庭は東京ドーム二十個分の広さがあるらしい。あまりに広くても手入れに困る。せめて陽の当たる、草の生えた庭があればいいなと夢想する。

 庭を作るには時間がかかり、最低でも十二年だとターシャが語っていた。陽の当たる庭をいつか手に入れるまでは、現在借りている部屋を少しづつ住み良いように作りたいと思うが、しかしベランダに置いたプランターには葉牡丹が枯れてから何も植わっていないし、水槽では金魚藻が好きかってに伸びている、または遮光カーテンの裾が長すぎるから加工しなければと思い続けて二年が過ぎていたりする。鋏と針と糸さえあれば難しいことではないのに放ったらかしだ。

部屋

 焦ることと急ぐことは違う、と人に言われたことがある。僕は少し急いだほうがいい。

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日記

 野生動物たちが道路を歩いていると乾燥や事故などによって死んでしまうことが多いけれど、河川敷を歩いているかぎりは安全に長距離を移動できる、常に水場があり、身を隠す植物も生えている、つまり彼らにとっては川が「道」の役割を持っている、そんな内容の展示を朝霞市博物館で見てきた。最近考えていた短編小説の題名と、展示内容が見事な一致をしていたのだが、眠いから話の続きは後日

 山小屋で働いている友人が九月には埼玉に来るというので今から部屋を片付けているのだが改めて観察すると本当に俺の部屋は汚いなというかべつに散らかってはいないけど換気扇とか窓枠なんかが埃と油とで黒ずんでいて直視に堪えないから台所洗剤つけて磨いてみると見違えて綺麗になって俺の部屋じゃないみたいだと思ったりしてそもそも部屋を所有しているのは大家だから過去何十年にも亘って俺以外の誰かが住み着いては去っていった訳だけれど彼らが残した痕跡といえば換気扇や窓枠の汚れといったものでしかなく無碍に洗剤で擦り落としてよいものだろうかと悩んだということはなくてラジオ聴きながら楽しく掃除していたらすっかり外が暗くなったので薬缶をカセットコンロにかけて湯をぐらぐら沸かして刻み玉葱の入った八王子ラーメン風の食事を摂って冷たいビールなど飲んでいると深夜になったから水槽の灯りを消して戸惑ったような金魚たちにカメラを向けてみたけれど手ブレとピンボケでひどい写真になったなんてことを今さら書くまでもなく俺の写真はいつも出鱈目でしかないし文章だって出鱈目だと狂ったふりをするのは簡単だけど本当に真面目に撮ったり書いたりするのは難しい

(23時25分 投稿 / コメント+トラックバック 0 件)

葉っぱ

 光の三原色RGBと、色の三原色CMYが、それぞれ赤-シアン、緑-マゼンタ、青-黄のように対応して、補色の関係にあることを最近まで知らなかった。すなわちシアンを引けば赤みがかり、黄色を引けば青みがかった写真ができる。こんなことは初歩的な知識かもしれないし、よくもまあ写真が趣味だなんて言えたもんだと恥ずかしくなるが、知ったからといって飛躍的な進歩がみられる訳でもない。多少は色の出方をコントロールできるようになる、それだけのことだ。

 緑の葉っぱを正しい緑色として写真にするのが難しい。プラス側に露出補正すれば黄色がかった緑になり、マイナス補正すれば青みがかった緑になる。そもそも色彩感覚に優れているとはいえない俺の目玉が、葉っぱや空の色を正確に捉えてはいないし、ゆえに再現することもできない。たとえ再現できたとしても飛躍的に写真が美しくなることはないし、または、再現できず狂った色彩になったとしてもサイケデリックな感覚に陥ることなどない。あるいは彩色をあきらめてしまいモノクロの表現に向かったとしても俺の目玉が向き合っている景色から色彩が失われる訳ではない。

 夏から秋に変われば葉っぱの色が移り変わり、それぞれの正しい色を追い求めたとして、追いつけるはずはないだろうし、追いついたところで綺麗だとは思われずに、記憶色に近い鮮やかな色彩が評価されたりもする。だから色のことを考えるのは程々にして、葉っぱそのものについて考えたい。

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対流圏

空

 昨夜、南の海上から関東地方にやってきた積乱雲は、雲頂高度が約十五キロに達していたらしい。一年のうちで今ごろはもっとも対流圏界面が高いのだと思い出した。この圏界面を突き抜けて成層圏にまで達するような積乱雲は、ごく稀な例を除いては存在しない。国際線の旅客機は約十二キロの高度を飛行するし、一部の軍用機は三十キロ近い高度まで上昇できるから、積乱雲より人間のほうが幾らかは高いところに到達できる。行ってみたいとは思わないけどな。最近何日か集中豪雨をもたらしていたニンジン型の雲、テーパリングクラウドがようやく収まり、今日になって久方ぶりの青空が見られたと思ったら秋の鱗雲だった。明日から九月。

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