ノート 1220080718

クロクマの親子と会い、北極圏に入った。
2007.7.11 Dalton Highway MP49 ― Yukon Crossing ― MP97 77km
2007.7.12 MP97 ― Arctic Circle ― MP132 Gobbler's Knob 57km
2007.7.13 MP132 ― MP180 Marion Creek Campground 77km
アラスカを旅行する日本人のほとんどは「ノダノダ」言っているか、「ホシノさん」の書いた本を携えて、遠い目をしている。前者は野田知佑で後者は星野道夫のことだ。大勢で川下りを楽しむツアーなどで、ある地点に差し掛かった途端、日本人客は「この場所でノダさんはクマに遭遇して云々」「あそこではノダさんのカヤックが転覆して云々」などと興奮気味に喋りだすらしい。まったく馬鹿げていると思うが、しかし僕がアラスカを訪れたきっかけは、やはり野田知佑と星野道夫の著作を読んだからだった。ユーコン川に架かる橋を自転車で渡りながら「この橋の下をノダさんと犬のガクは流れていったのだなあ」と感動してしまい、僕も相当なものだった。
キャンピングカーに給水する大きなホースから滝のように流れ落ちている水を、頭からかぶり、顔を洗い、タオルを濡らして全身を拭いた。ボトルに詰めていた古い水を捨てて、新しい水に入れ替えた。ここから次の給水ポイントまでは百八十キロある。思う存分に水浴びを楽しんでいると、本来の利用者であるキャンピングカーが現れて、車体にホースを接続した。アラスカを走っているキャンピングカーは日本では見られない大型の車体が多く、五十人乗りの観光バスくらいの大きさが普通だ。これなら無尽蔵に荷物を積めるし、家族を乗せて何ヶ月でも旅行が続けられる。いつか僕が結婚したとき嫁さんとなる人に「自転車旅行しよう」と誘っても断られるに決まっているが、あるいはキャンピングカーなら渋々承知してくれるかも判らない。
給水所を離れ、砂利道を走り始めてまもなく、三十メートルくらい前方の草むらの中から黒いものが飛び出してきた。体長は一メートル五十センチくらい、脇には小さな黒いものを連れている。アメリカクロクマの親子だった。クロクマは比較的おとなしい性格として知られているが、子連れの母親となれば話はまた別で、いつ襲いかかられても不思議はない。驚いた僕はその場に立ちすくみ、それは母クマの側も同じだったのか、互いに身動きできず固まってしまった。時間にして二十秒ほど見つめあっていたけれど、もっと長かったようにも感じられた。やがて遥かな後方から十八輪の大型トレーラーが近付いてくると、クロクマ親子はのそのそと歩いて道路を横断し、枯れ枝をパキパキ踏み鳴らしながら森の中へと消えた。
クマから逃げるように猛烈な勢いで走り、体力を使い果たして動けなくなる。けれども道端に座ってラーメンを食い、テントを張って一晩眠ると、また元通りに気力と体力が漲っていた。重い自転車を砂利道でコントロールすることに慣れ、森林限界の標高が徐々に下がって、空想していたアラスカの景色に近付いてきたこともあり、遅いながらも着実に北上を続けた。北緯六十六度三十三分のラインを越えて北極圏に入ると、ほとんど一般車両は通らなくなる。完全に無音の世界となった。もしも野生動物に襲われたなら一度はベアスプレーを使えるけれど、二度目はない。そのときはヒッチハイクに切り替えようと思った。
大型オートバイの旅行者と立ち話をする。カナダに向かって走っているそのオッサンは、ブラックベアはそれほど怖くないが、ブラウンベアには気をつけろと言い、ぐあおー、うぐあー、と両手を挙げて吠え真似をした。彼と別れてしばらくすると、今度はドライブしている夫婦と会い、私たちは富士吉田に二年くらい暮らしていた、富士山は本当に素晴しいなどと言う。人里離れるにつれて会話の頻度が増していることが愉快だった。
長く険しい坂の手前で、日本から持参した温麺を茹でて食い、さあ行くぞと自転車を押し始めた途端、通りがかったピックアップトラックから声を掛けられた。坂の上まで連れて行ってやる、荷台に自転車を載せろと言うのだが、僕の自転車は総重量がおそらく七十キロくらいある。二人がかりでなんとか持ち上がったけれど申し訳ない気持になる。スティーブと名乗った五十代後半くらいに見える男は、夏のあいだアラスカに来て「マッシュルーム」を探しているという。何かの隠語だろうかと思っていると、布張りの小さな箱から、それを取り出して見せてくれた。親指くらいの大きさの金鉱石だ。ゴールドラッシュで沸いていた時代から百年も経っているというのに、まだ金を探して彷徨っている人がいる。約束通りに坂を越えたところで降ろしてもらい、写真を撮らせてくれと頼んだ。今回の旅行中に会った一番魅力的な男、スティーブを撮った写真は、帰国後に写真雑誌の月例コンテストに入賞した。
コールドフットの手前では、舗装された路面を猛スピードで駆け下りた。前傾した体に正面から風を受けて、浮き上がるような感覚を覚えるほどの速さだった。坂を下りきったところで速度計を見ると、時速七十八キロが記録されていた。
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