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 野ウサギに会った、この日が転換点だった。

2007.7.10 Dalton Highway MP3 ― MP49 74km (MPはMilePostの略)

 果てしなく続く未舗装道路、ダルトン・ハイウェイの入口に着いた。ここから北極海まで六百キロ余りの区間には町と呼べるものがない。二十人程度が暮らす村または集落がいくつかあるだけだ。この道路を走ることができたなら思い残すことは何もない、というくらい僕はダルトンに憧れていた。ここを走り終えたらきっと自分は腑抜けになるだろうな、と思った。

 初めの三時間で進んだ距離は、僅かに十七キロだった。一番内側のギアに入れても進めないほどの急勾配、タイヤを前後左右に滑らせる砂利、水をいくら飲んでも発散できない熱気、これらが何重にも纏わりついて走行を妨げる。どんなに逆境でも文句をこぼさず、めげずに走れる人間が世の中にはいるのだろうが、僕には到底無理なことだった。数分おきに「コノヤロー」「クソッ」などと独りで愚痴をこぼしながら自転車を引きずって歩き続けた。

 前方からよろよろと走ってきた自転車を見つけ、互いに手を振った。隣り合せになると手を握り、喜び合った。スイスから来たというマークは、これからウシュアイアに向かって走り始めたばかりだと言った。彼が目指している三万キロ先の目的地、ウシュアイアは、世界中の旅行者たちがいつかは訪れたいと憧れる、世界最南端の都市だ。いまこうして世界の果てのような土地にいながら、もう一つの果てに思いをめぐらせるには相当の想像力を要すると思う。マークに「Have a good travel」と言って別れた数分後、道端で休んでいる別の自転車旅行者に出会った。

 スカッド、マットと名乗る二人組は、やはりウシュアイアを目指していると言い、まあコーヒーでも飲んでいけと僕を道端に座らせた。チタンのカップに即席コーヒーの粉を入れ、コンロで沸かした熱湯を注いで僕に渡した。こんなクソ暑いときに熱いコーヒーなんて飲めるかと思いながらも口をつけると、嘘のように一瞬で暑さが退いていき、喉の渇きが消え去ってしまった。お礼のつもりでスニッカーズを渡すと、顔をくしゃくしゃにして彼らは喜んだ。何がそんなに楽しいんだろう、俺はこんな苦しいのにと思いながら、ぎこちない笑顔を自分も作ってみた。少しだけ愉快な気持になれる。可笑しいから笑うのではなく、笑うから可笑しいのか。ジェームズ・ランゲ説。

 別れ際にスカッドが「Have a good travel」を日本語で何と言うのか教えてほしいと言った。直訳すれば「良い旅を」であると教えてみたが、発音が難しいのか「よえたびゃ」になってしまう。或いはこう言ってもいいだろうか、と僕がデナリで言われた「ガンバッテ」を教えてみると、言い易かったのか、猿のようにくしゃくしゃの笑顔で「ユウキ、ガンバッテ、ガンバッテ」と繰り返し叫んだ。べつに頑張るつもりはないけれど、彼らと僕に「良い旅を」と思えば、また少し楽しくなった。

 南北米縦断を目指す彼らは、ここまで一日に六十キロのペースで走ってきたという。僕は少しばかり急ぎすぎていたようだった。ゆっくりで構わないのだと気付いてから、前に進むことが俄然楽しくなってきた。しんどいときは自転車を押して歩き、調子が良ければ走る、それを誰も咎めはしない。日が差したかと思えば突然に豪雨となり、すぐにまた日が差す、向こうから車がやってくれば手を挙げる、運転席と助手席の男女が目を丸くして手を振っている、こちらも手を振り返す、トレーラーの運ちゃんもリズミカルに警笛を鳴らして手を振っている、こちらも手を振り返して大袈裟に笑う。

 雨がやんだら雨合羽を脱ぐために立ち止まる。警笛を鳴らして僕とすれ違った小型バスが後方で停まった。運転席から降りてきたサングラスの男が、砂利を踏みしめながらこちらに近付いてくる。何事かと身構えると、ふと明るい声で「ユウキ?」と男が喋った。目の前まで来ると「俺を憶えてるか」とサングラスを取る。フェアバンクスで僕の自転車を取り返すため奔走してくれた男、ラルフだった。旅行者たちを北極圏まで連れて行くバスツアーの帰りに僕を見つけ、停車してくれたのだ。ラルフと僕は抱き合って再会を喜んだ。いまこうして喜怒哀楽が混ぜこぜになりながらも走れているのは、彼のおかげだ。フェアバンクスまでの遠い道のりを走っていくバスが点になって消えるまで、僕は目を離さなかった。

 文章にすれば慌ただしいけれど、この日はもう一つの出会いがあった。道路工事のため五マイルという長い片側交互通行をしている箇所で、交通誘導員のジョーという男に会った。彼はかつて海軍におり、一九七一年から二年間、家族とともに博多で暮らしていたという。日本はとてもgoodなところだが、しかしNorth Koreaはとてもbadだ、奴らを見張るために働いていたのだとジョーは言った。続けて彼は憶えているかぎりの日本語を並べ立てた。コンニチワ、サカナ、コンバンワ、フクオカ、アメ、ユキ等々。日本語でsnowはユキと言うのだったなと彼が言い、そこですかさず僕の名前はYukiというのだと返した。おお、なんてことだ、おまえはMr.Snowじゃないかとジョーは大喜びし、こいつを持っていけとペプシやコカコーラを僕に持たせたのだった。

 空が暗くなってきたかと思うと、まもなく強烈な雷鳴が轟いて豪雨となった。遮るものが何もない広野で雷に打たれて自分は死ぬのかもしれない、などと考えながら夜中まで走り続けた。パイプラインの近くにテントを張り、クマに怯えながらペプシを飲んだ。強烈な旨さだった。

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