ノート 10

 昨年の夏に行った自転車旅行の記録を再開。

2007.7.8 Fairbanks ― Wickersham Dome Trailhead 72.7km
2007.7.9 Wickersham Dome Trailhead ― Dalton Highway MP3 ??km

 アラスカ内陸部の夏は暑い。何しろ昼の長さが二十時間もあるうえに大気がひどく澄んでおり、フェアバンクスでは摂氏三十三度を記録した。スーパーマーケットで買い込んだ十キロの食料、プラスチックボトルに詰めた七リットルの水、蚊除けスプレー、クマ除けスプレーなどを積んで出発。

 町を離れていよいよ無人の広野へ、と意気込んでみたけれど交通量は依然多かった。太平洋岸のバルディーズから北極海のプルドーベイまでを結ぶ石油パイプラインが、フェアバンクス近郊でハイウェイと近接しており、ここには旅行者を乗せた観光バスがたくさん訪れる。パイプラインを撫でたり叩いたりして笑っている家族連れを横目に見ながら、おそらくは北限であろう自動販売機にクォーター硬貨を投入してスプライトを買った。

 駐車場でスプライトを飲んでいると、ひどくさわやかな顔をした二名の白人男性に話しかけられた。何を喋っているか五割ほどしか判らないので適当に頷いていると、小さな冊子を差し出された。真っ暗闇に一筋の稲妻が走っている写真と、最後の日がどうのこうのという文言が書かれていた。有り難うございます、大切にしますと言い、あとで綺麗に折り畳んでからゴミ箱に棄てた。

 北上するにつれて気温はさらに高くなり、自動車は数分に一台しか見かけなくなった。見晴らしのよい空地にテントを張り、五十メートル以上離れたところに自転車を停めて食事を作った。食べ物の匂いがテントに染みついてしまうと、寝ているあいだにクマが嗅ぎつけてくる可能性がある、だからこれだけは絶対に守れ、とアウトドアショップ Beaver Sports で知り合った兄ちゃんが話していた。クマも恐ろしいが、本当に厄介なのは蚊だ、 many many many mosquitoes が唸りながら飛び交うのだ、と両腕を大袈裟に振りまわして彼は言っていた。

 たしかに蚊は厄介だった。頭から蚊除けネットを被っていても手足は刺される。けれども本当に厄介なのは、見渡すかぎり自分の周囲に誰もいないこと、徹底して孤独なことだった。もう馬鹿かと思うほどにダイナミックな展望のある場所に小さなテントを張り、引き籠もって小説を読んでいた。

 瀬戸内海の小さな島を訪れた若い旅行者が、そこで知り合った少女と懇ろになるという内容で、早い話がネットで拾った官能小説だ。港町を望む窓辺で二人が睦みあう描写を、誰もいない広野で読むことになるとは思わなかった。自分が旅行しているのは、勿論、他人に強制されたのでも刑罰でもない、自身の意思によるものだが、何か釈然としなかった。野生動物と触れ合いたいとか、現地の人々と語り合いたいとかいう願望はなかった。強く望んでいたのは小説と正反対の内容、つまり誰とも触れ合うことなく広野の一本道をたどって北極海まで行き着くこと、それだけだった。自ら望んでここまで来たというのに何を考えているのか、と思った。ここは瀬戸内の港町ではなくアラスカだ。

 誰もいない場所で眠り、誰にも気付かれずに朝を迎えた。自分の行動を監視しているやつなどいない、どこへ行こうと自由だ、帰って昼寝するのも俺の勝手だと思いながら、また北上を始めた。一時間に数台しか自動車の通らない舗装路を、黙々と走り続けた。道端で休んでいると、ピックアップトラックに乗った三人の旅行者に呼び止められ、たくさんの食べ物をもらった。胡椒が効いているハムとレタスとトマトのサンドイッチ、大きな青リンゴ、それと水だった。写真を撮らせてもらい、彼らが去ったあとに自分も走り始め、広野の真只中に立ち止まって、食べた。

 ここから前に進んでも地獄、後ろに退いても地獄のような道のりだけれど、進んでいるほうが食べ物はもらえるかもしれないと考えた。青リンゴの芯を遠くへ放り投げ、自転車を押して歩き始めた。間もなく、数歩進んでは荒い呼吸をするような急勾配の道に差しかかり、この旅行を始めてしまった自分の決断を呪いたく思った。前へ進むことには何も意味がない。

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