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2007.7.7 Billie's Backpackers Hostel, Fairbanks

 自転車旅行において、一番大切な道具、自転車を盗まれた。

 アラスカ大学の駐輪場に停めて、博物館へ行っていた、わずか二時間のあいだに何者かが持っていった。鍵は掛けていたけれど、日本でやっていたように前輪とフレームとを括っただけで、フレーム自体をどこにも繋いでいなかった。トラックに積んで持ち去ろうとすれば数秒で済む。誰にも見られずに運べる。「うわああ」と声に出した。たった一週間で終わってしまった、残り三週間をどう過ごせばいいんだ、どこへも行けないじゃないか。途方に暮れて駐輪場にうずくまった。

 博物館に展示されていたシロクマの剥製、体長三メートル、体重五百キログラム。時速五十キロで獲物を追いかける。遥か三十キロ離れた場所から食べ物の匂いを嗅ぎつける。こんな化け物がうろついている北極圏になど行きたくない、自転車にも乗りたくない、そう思っていた矢先の出来事でもあった。これでもう走らなくていい、救かったと思った。盗難に遭って腹立たしい気持が、わずか十分ほどで霧消した。立ち上がってBillie'sまで歩く。

 本を読んでいたタクトさんに「チャリンコ盗まれました」と告げてソファに倒れこんだ。動けなかった。警察に電話したいが二人とも英会話はできない。一応、少しは喋れるが、ネイティブの発音を聴きとれないのだ。ユリコさんなら英会話ができるけれど大学に行っている。ぐったりしてコーヒーを啜っていると、ドイツ人のラルフが帰ってきた。何かあったのかと問われて「My bike is stolen.」と応えると、ラルフの顔色が変わり、急いで電話を掛け始めた。警察に連れて行ってやる、車に乗れという。彼の英語はとても聴きとりやすかった。

 大学の敷地内にある警察の詰所に行き、拙い英語をもって事情を話した。神妙な顔で聞いていた警察官が、オーケー、探してみようと言った。但し、市内では今夏、三十台の自転車が盗まれていて、一つも見つかっていない、とも言った。何枚かの書類を書いて、警察を出た。車に戻ってラルフと話をした。

「もしも自転車が見つからなかったら君のバスツアーに参加するよ、あとはヒッチハイクで北極海まで行こうかな」
「それはいい、グッドアイデアだ」

 Billie'sに戻るとタクトさんがウドンを茹でていた。長葱と麺つゆもあった。スーパーで買ってきたんだ、さあ食え、という。厳密にいえば長葱じゃなくて、なんとかオニオンっていうらしいけどな、とタクトさんは笑った。ここに滞在する人たちはラルフもタクトさんもユリコさんも凄いな、とても敵わないと思った。俺はいつでも内省という言葉を盾にして、一人きりで閉じ籠もっているけれど、この人たちはいつも他人に関わろうとしている。本当に有り難いことだと思い、自分の言動や行動を恥じた。

 ウドンを食べ終えた頃、電話が掛かってきた。どういうわけか自転車が見つかったという。ボロボロに泣きたい気持だったが涙は少ししか出なかった。その場にいた人々が「You are very lucky!」と口々に言った。その通りだ、有り難うと言いながら、再びラルフと車に乗った。

 警察官の喋っていることは半分も理解できなかったが、自転車は駐輪場近くの茂みに隠されていたこと、それをパトロール中に偶然見つけたこと、などが聴きとれた。犯人は自転車を一旦隠しておいて、日が沈んでから運ぶつもりだったらしい。他にもfingerprintという単語が聴こえたけれど、指紋を採取して照合するという話なのか、すでに誰か逮捕されていたのか、それは解らなかった。いずれにしても、市内で今夏盗まれた自転車を、取り戻したのは俺が最初ということになるらしい。

 ユリコさん、タクトさんとの最後の食事会は、自転車奪還パーティーを兼ねることになった。海外で盗難に遭ったものが手元に戻るなんて奇跡だ、めでたいから祝おう、飲もう、といってユリコさんがワインを出した。何だか俺は貰ってばかりで申し訳ないけれど、ここで会った人たちに礼を述べることと、取り戻した自転車を再び走らせること、それしかできないと思った。夜中まで酒を飲みながら喋り続け、顔を真っ赤にし、最後には手を握り合った。

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