ノート 820080701

2007.7.6 Billie's Backpackers Hostel, Fairbanks
山のような荷物を積んだ二台の自転車が、北極海に向けて出発した。ドイツ人の男、スイス人の女とそれぞれ握手する。ここから八百キロを彼らは十日間で走ると言った。俺もあとから追いかける形になるが、砂利道ということもあり十四日間で走る計画を立てた。二度と会うことはないんだろうな。
二人を見送った後、テントに引き籠もった。何も考えたくはないし何処にも行きたくはなかった。ガイドブック『地球の歩き方・アラスカ』を開いてみれば、市内には幾つかの観光スポットが一応あるけれど、興味を引かれるのは博物館くらいなもので、しかしテントから這い出る気力も体力もなかった。今日は一切動かない、何もしないと決めて寝袋に潜ったが、日が高くなるとテントが蒸し風呂のようになって堪えられず、外に出た。
キッチンでスパゲティを茹でていると、アトランタから来たという若い男に話しかけられた。少しく陰のある物静かな青年で、アメリカ人にしては珍しいと思った。夏休みで長い休暇に来ているんだ、大学では環境科学をやっている、と彼は言う。いったいその環境科学というやつは何を学ぶのかと訊ねてみると、彼は照れくさそうに「Everything.」と答えた。良くいえば学際的だが、悪くいえばそういうことになるんだろうなと思った。
南米まで自転車で走るというタクトさん、アラスカ大学の聴講生ユリコさんと雑談をする。二人とも日本が厭になって飛び出し、世界中を旅してきた経歴を持っており、とても敵わないけれど、しかし俺は彼らのようになりたいのかと自問した。日本でどうにもならないことが外国では解決する、とは考えられない。結局は持ち帰ることになる。持ち帰る荷物を増やすためにむしろ旅行するのかもしれない。
ロビーで寛いでいるラルフというドイツ人の男がいた。彼は旅行者をバスに乗せて日帰りツアーに連れて行く仕事をしていた。ユリコさんによれば、ラルフは日本人女性と結婚して森に住んでいたのだが、離婚してしまい町に出てきたのだという。何か達観したような落ち着きは俺からみても格好良かったし、ユリコさんは中年男性がそもそも好みとのことで、半ば惚れているようだった。日本にいれば考えずに済むことがたくさんあって、楽しいけれど、厄介だ、面倒だなと思った。
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ノート 920080703
2007.7.7 Billie's Backpackers Hostel, Fairbanks
自転車旅行において、一番大切な道具、自転車を盗まれた。
アラスカ大学の駐輪場に停めて、博物館へ行っていた、わずか二時間のあいだに何者かが持っていった。鍵は掛けていたけれど、日本でやっていたように前輪とフレームとを括っただけで、フレーム自体をどこにも繋いでいなかった。トラックに積んで持ち去ろうとすれば数秒で済む。誰にも見られずに運べる。「うわああ」と声に出した。たった一週間で終わってしまった、残り三週間をどう過ごせばいいんだ、どこへも行けないじゃないか。途方に暮れて駐輪場にうずくまった。
博物館に展示されていたシロクマの剥製、体長三メートル、体重五百キログラム。時速五十キロで獲物を追いかける。遥か三十キロ離れた場所から食べ物の匂いを嗅ぎつける。こんな化け物がうろついている北極圏になど行きたくない、自転車にも乗りたくない、そう思っていた矢先の出来事でもあった。これでもう走らなくていい、救かったと思った。盗難に遭って腹立たしい気持が、わずか十分ほどで霧消した。立ち上がってBillie'sまで歩く。
本を読んでいたタクトさんに「チャリンコ盗まれました」と告げてソファに倒れこんだ。動けなかった。警察に電話したいが二人とも英会話はできない。一応、少しは喋れるが、ネイティブの発音を聴きとれないのだ。ユリコさんなら英会話ができるけれど大学に行っている。ぐったりしてコーヒーを啜っていると、ドイツ人のラルフが帰ってきた。何かあったのかと問われて「My bike is stolen.」と応えると、ラルフの顔色が変わり、急いで電話を掛け始めた。警察に連れて行ってやる、車に乗れという。彼の英語はとても聴きとりやすかった。
大学の敷地内にある警察の詰所に行き、拙い英語をもって事情を話した。神妙な顔で聞いていた警察官が、オーケー、探してみようと言った。但し、市内では今夏、三十台の自転車が盗まれていて、一つも見つかっていない、とも言った。何枚かの書類を書いて、警察を出た。車に戻ってラルフと話をした。
「もしも自転車が見つからなかったら君のバスツアーに参加するよ、あとはヒッチハイクで北極海まで行こうかな」
「それはいい、グッドアイデアだ」
Billie'sに戻るとタクトさんがウドンを茹でていた。長葱と麺つゆもあった。スーパーで買ってきたんだ、さあ食え、という。厳密にいえば長葱じゃなくて、なんとかオニオンっていうらしいけどな、とタクトさんは笑った。ここに滞在する人たちはラルフもタクトさんもユリコさんも凄いな、とても敵わないと思った。俺はいつでも内省という言葉を盾にして、一人きりで閉じ籠もっているけれど、この人たちはいつも他人に関わろうとしている。本当に有り難いことだと思い、自分の言動や行動を恥じた。
ウドンを食べ終えた頃、電話が掛かってきた。どういうわけか自転車が見つかったという。ボロボロに泣きたい気持だったが涙は少ししか出なかった。その場にいた人々が「You are very lucky!」と口々に言った。その通りだ、有り難うと言いながら、再びラルフと車に乗った。
警察官の喋っていることは半分も理解できなかったが、自転車は駐輪場近くの茂みに隠されていたこと、それをパトロール中に偶然見つけたこと、などが聴きとれた。犯人は自転車を一旦隠しておいて、日が沈んでから運ぶつもりだったらしい。他にもfingerprintという単語が聴こえたけれど、指紋を採取して照合するという話なのか、すでに誰か逮捕されていたのか、それは解らなかった。いずれにしても、市内で今夏盗まれた自転車を、取り戻したのは俺が最初ということになるらしい。
ユリコさん、タクトさんとの最後の食事会は、自転車奪還パーティーを兼ねることになった。海外で盗難に遭ったものが手元に戻るなんて奇跡だ、めでたいから祝おう、飲もう、といってユリコさんがワインを出した。何だか俺は貰ってばかりで申し訳ないけれど、ここで会った人たちに礼を述べることと、取り戻した自転車を再び走らせること、それしかできないと思った。夜中まで酒を飲みながら喋り続け、顔を真っ赤にし、最後には手を握り合った。
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配送料の話の続き20080704
元の匿名記事にも書いたけれど、値引き要求が「脅迫的な方法」を取るかどうかは重要じゃないんです。
ヤマダ電機は、決してタダ働きを強要していたのではない。優越的地位を利用して、あくまで「婉曲的に」労働者派遣を要請していた。結果として被る損害は同じだけれど、外から見ればメーカー側が自発的に派遣しているだけで、ヤマダは何も脅迫なんかしてないよ、ということになる。恫喝するような違法性がないから発覚しづらく、その分、悪質だった。
id:asami81さんが店頭において恫喝などしていないのは承知しています。プリントアウトしたのを見せただけで店員さんが「自発的に」送料無料にしてくれた、これはすごい便利、という話です。しかし某カメラ屋店員として言わせてもらえば、店側ではこういったお客さんに対しては「何を言っても無駄」という判断を下し、なるべく早めに帰っていただくような対応をとります。すなわち原価割れならば「お引取りください」、あるいは辛うじて赤字にならなければ会計をさっさと済ませる。お客さんが店を選ぶのと同様に、店側でもお客さんを選んでいます。なぜなら、ごねている一人のために時間を割いている余裕がないからです。
配送料無料になった今回のケースでは、仕入値を割らなかったか、あるいはメーカーから補填が入るため、対応してもらえたのだと思います。俺がバイトしている某カメラ屋(ヨドバシではない)では、店頭とネットでは価格にやはり差があって、ネットのほうでは補填が入るために安めの価格設定となっているようです。これ以上の詳細については守秘義務に触れるから、書けないのだけど、一つだけ言っておきたい。今年に入ってから店は全然儲かってなどいないし赤字ですよ。
ヨドバシの経営が揺らぐほどの影響があったかといえば、それはまずないでしょう。人員を減らして店舗を整理して、ヤマダのようにバイトすら雇わずメーカーから派遣させて、それでもダメなら倒産に至る。だけど大企業は体力があるからそう簡単には倒れない。びくともしない。小さな企業が潰れたって大きく報道はされない。だから問題は表面化しないし厄介だ。
大事なことだから改めて書きます。ヤマダの行為はただの「商慣行」、お客さんの値引き要求もただの「商慣行」です。まったく違法性などはありませんし、店側もできるかぎりの対応をしてくれます。その善意に頼ることで自分の財布を守るのは、当然ながら消費者の権利ですが、一方、店は小さなところから潰れています。ブクマコメントの一部に「適正な小売店の数」なんて表現がありましたが、冗談じゃないです。
はっきり言ってしまえば、例の記事について俺は腹を立てており、それを否定するつもりは毛頭ありません。さらに言えば全国の小売業に携わる人々はちゃんと怒ったほうがいい。配送料無料が新しい商慣行として広まったときには手遅れです。皺寄せがどこに向かうのか、予想するのは本当に難しいけれど、あるいは受益圏/受苦圏という概念に基づいて考えられないかと思っています。 (続く……かもしれない)
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散歩20080706

FinePix S2Pro / Ai AF Nikkor 28mm F2.8D
散歩中に見つけたトノサマバッタの散歩。後肢が折れ曲がっていて上手く歩けずにいた。昨日まで書いていた話については増田さんの安い方が正義ダヨネ!と古川健介さんの適正価格で買おうという気持ちは重要な気がするがよくまとまっていて素晴しいと思いました。俺が書くと途中で話が逸れていってしまい、伝わらないことが多いもので、文章の整合性が保たれるように心掛けないといけないですね。
(23時20分 投稿 / コメント+トラックバック 0 件)
一週間20080710
CARDIA Travel mini op / DNP CENTURIA 400 (3, 6, 7)
FinePix S2Pro / Ai AF Nikkor 28mm F2.8D (1, 2, 4, 5)
明後日から通常更新に戻ります、多分。
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ノート 1020080712
昨年の夏に行った自転車旅行の記録を再開。
2007.7.8 Fairbanks ― Wickersham Dome Trailhead 72.7km
2007.7.9 Wickersham Dome Trailhead ― Dalton Highway MP3 ??km
アラスカ内陸部の夏は暑い。何しろ昼の長さが二十時間もあるうえに大気がひどく澄んでおり、フェアバンクスでは摂氏三十三度を記録した。スーパーマーケットで買い込んだ十キロの食料、プラスチックボトルに詰めた七リットルの水、蚊除けスプレー、クマ除けスプレーなどを積んで出発。
町を離れていよいよ無人の広野へ、と意気込んでみたけれど交通量は依然多かった。太平洋岸のバルディーズから北極海のプルドーベイまでを結ぶ石油パイプラインが、フェアバンクス近郊でハイウェイと近接しており、ここには旅行者を乗せた観光バスがたくさん訪れる。パイプラインを撫でたり叩いたりして笑っている家族連れを横目に見ながら、おそらくは北限であろう自動販売機にクォーター硬貨を投入してスプライトを買った。
駐車場でスプライトを飲んでいると、ひどくさわやかな顔をした二名の白人男性に話しかけられた。何を喋っているか五割ほどしか判らないので適当に頷いていると、小さな冊子を差し出された。真っ暗闇に一筋の稲妻が走っている写真と、最後の日がどうのこうのという文言が書かれていた。有り難うございます、大切にしますと言い、あとで綺麗に折り畳んでからゴミ箱に棄てた。
北上するにつれて気温はさらに高くなり、自動車は数分に一台しか見かけなくなった。見晴らしのよい空地にテントを張り、五十メートル以上離れたところに自転車を停めて食事を作った。食べ物の匂いがテントに染みついてしまうと、寝ているあいだにクマが嗅ぎつけてくる可能性がある、だからこれだけは絶対に守れ、とアウトドアショップ Beaver Sports で知り合った兄ちゃんが話していた。クマも恐ろしいが、本当に厄介なのは蚊だ、 many many many mosquitoes が唸りながら飛び交うのだ、と両腕を大袈裟に振りまわして彼は言っていた。
たしかに蚊は厄介だった。頭から蚊除けネットを被っていても手足は刺される。けれども本当に厄介なのは、見渡すかぎり自分の周囲に誰もいないこと、徹底して孤独なことだった。もう馬鹿かと思うほどにダイナミックな展望のある場所に小さなテントを張り、引き籠もって小説を読んでいた。
瀬戸内海の小さな島を訪れた若い旅行者が、そこで知り合った少女と懇ろになるという内容で、早い話がネットで拾った官能小説だ。港町を望む窓辺で二人が睦みあう描写を、誰もいない広野で読むことになるとは思わなかった。自分が旅行しているのは、勿論、他人に強制されたのでも刑罰でもない、自身の意思によるものだが、何か釈然としなかった。野生動物と触れ合いたいとか、現地の人々と語り合いたいとかいう願望はなかった。強く望んでいたのは小説と正反対の内容、つまり誰とも触れ合うことなく広野の一本道をたどって北極海まで行き着くこと、それだけだった。自ら望んでここまで来たというのに何を考えているのか、と思った。ここは瀬戸内の港町ではなくアラスカだ。
誰もいない場所で眠り、誰にも気付かれずに朝を迎えた。自分の行動を監視しているやつなどいない、どこへ行こうと自由だ、帰って昼寝するのも俺の勝手だと思いながら、また北上を始めた。一時間に数台しか自動車の通らない舗装路を、黙々と走り続けた。道端で休んでいると、ピックアップトラックに乗った三人の旅行者に呼び止められ、たくさんの食べ物をもらった。胡椒が効いているハムとレタスとトマトのサンドイッチ、大きな青リンゴ、それと水だった。写真を撮らせてもらい、彼らが去ったあとに自分も走り始め、広野の真只中に立ち止まって、食べた。
ここから前に進んでも地獄、後ろに退いても地獄のような道のりだけれど、進んでいるほうが食べ物はもらえるかもしれないと考えた。青リンゴの芯を遠くへ放り投げ、自転車を押して歩き始めた。間もなく、数歩進んでは荒い呼吸をするような急勾配の道に差しかかり、この旅行を始めてしまった自分の決断を呪いたく思った。前へ進むことには何も意味がない。
(23時58分 投稿 / コメント+トラックバック 0 件)
ノート 1120080715
野ウサギに会った、この日が転換点だった。
2007.7.10 Dalton Highway MP3 ― MP49 74km (MPはMilePostの略)
果てしなく続く未舗装道路、ダルトン・ハイウェイの入口に着いた。ここから北極海まで六百キロ余りの区間には町と呼べるものがない。二十人程度が暮らす村または集落がいくつかあるだけだ。この道路を走ることができたなら思い残すことは何もない、というくらい僕はダルトンに憧れていた。ここを走り終えたらきっと自分は腑抜けになるだろうな、と思った。
初めの三時間で進んだ距離は、僅かに十七キロだった。一番内側のギアに入れても進めないほどの急勾配、タイヤを前後左右に滑らせる砂利、水をいくら飲んでも発散できない熱気、これらが何重にも纏わりついて走行を妨げる。どんなに逆境でも文句をこぼさず、めげずに走れる人間が世の中にはいるのだろうが、僕には到底無理なことだった。数分おきに「コノヤロー」「クソッ」などと独りで愚痴をこぼしながら自転車を引きずって歩き続けた。
前方からよろよろと走ってきた自転車を見つけ、互いに手を振った。隣り合せになると手を握り、喜び合った。スイスから来たというマークは、これからウシュアイアに向かって走り始めたばかりだと言った。彼が目指している三万キロ先の目的地、ウシュアイアは、世界中の旅行者たちがいつかは訪れたいと憧れる、世界最南端の都市だ。いまこうして世界の果てのような土地にいながら、もう一つの果てに思いをめぐらせるには相当の想像力を要すると思う。マークに「Have a good travel」と言って別れた数分後、道端で休んでいる別の自転車旅行者に出会った。
スカッド、マットと名乗る二人組は、やはりウシュアイアを目指していると言い、まあコーヒーでも飲んでいけと僕を道端に座らせた。チタンのカップに即席コーヒーの粉を入れ、コンロで沸かした熱湯を注いで僕に渡した。こんなクソ暑いときに熱いコーヒーなんて飲めるかと思いながらも口をつけると、嘘のように一瞬で暑さが退いていき、喉の渇きが消え去ってしまった。お礼のつもりでスニッカーズを渡すと、顔をくしゃくしゃにして彼らは喜んだ。何がそんなに楽しいんだろう、俺はこんな苦しいのにと思いながら、ぎこちない笑顔を自分も作ってみた。少しだけ愉快な気持になれる。可笑しいから笑うのではなく、笑うから可笑しいのか。ジェームズ・ランゲ説。
別れ際にスカッドが「Have a good travel」を日本語で何と言うのか教えてほしいと言った。直訳すれば「良い旅を」であると教えてみたが、発音が難しいのか「よえたびゃ」になってしまう。或いはこう言ってもいいだろうか、と僕がデナリで言われた「ガンバッテ」を教えてみると、言い易かったのか、猿のようにくしゃくしゃの笑顔で「ユウキ、ガンバッテ、ガンバッテ」と繰り返し叫んだ。べつに頑張るつもりはないけれど、彼らと僕に「良い旅を」と思えば、また少し楽しくなった。
南北米縦断を目指す彼らは、ここまで一日に六十キロのペースで走ってきたという。僕は少しばかり急ぎすぎていたようだった。ゆっくりで構わないのだと気付いてから、前に進むことが俄然楽しくなってきた。しんどいときは自転車を押して歩き、調子が良ければ走る、それを誰も咎めはしない。日が差したかと思えば突然に豪雨となり、すぐにまた日が差す、向こうから車がやってくれば手を挙げる、運転席と助手席の男女が目を丸くして手を振っている、こちらも手を振り返す、トレーラーの運ちゃんもリズミカルに警笛を鳴らして手を振っている、こちらも手を振り返して大袈裟に笑う。
雨がやんだら雨合羽を脱ぐために立ち止まる。警笛を鳴らして僕とすれ違った小型バスが後方で停まった。運転席から降りてきたサングラスの男が、砂利を踏みしめながらこちらに近付いてくる。何事かと身構えると、ふと明るい声で「ユウキ?」と男が喋った。目の前まで来ると「俺を憶えてるか」とサングラスを取る。フェアバンクスで僕の自転車を取り返すため奔走してくれた男、ラルフだった。旅行者たちを北極圏まで連れて行くバスツアーの帰りに僕を見つけ、停車してくれたのだ。ラルフと僕は抱き合って再会を喜んだ。いまこうして喜怒哀楽が混ぜこぜになりながらも走れているのは、彼のおかげだ。フェアバンクスまでの遠い道のりを走っていくバスが点になって消えるまで、僕は目を離さなかった。
文章にすれば慌ただしいけれど、この日はもう一つの出会いがあった。道路工事のため五マイルという長い片側交互通行をしている箇所で、交通誘導員のジョーという男に会った。彼はかつて海軍におり、一九七一年から二年間、家族とともに博多で暮らしていたという。日本はとてもgoodなところだが、しかしNorth Koreaはとてもbadだ、奴らを見張るために働いていたのだとジョーは言った。続けて彼は憶えているかぎりの日本語を並べ立てた。コンニチワ、サカナ、コンバンワ、フクオカ、アメ、ユキ等々。日本語でsnowはユキと言うのだったなと彼が言い、そこですかさず僕の名前はYukiというのだと返した。おお、なんてことだ、おまえはMr.Snowじゃないかとジョーは大喜びし、こいつを持っていけとペプシやコカコーラを僕に持たせたのだった。
空が暗くなってきたかと思うと、まもなく強烈な雷鳴が轟いて豪雨となった。遮るものが何もない広野で雷に打たれて自分は死ぬのかもしれない、などと考えながら夜中まで走り続けた。パイプラインの近くにテントを張り、クマに怯えながらペプシを飲んだ。強烈な旨さだった。
(23時43分 投稿 / コメント+トラックバック 0 件)
ノート 1220080718
クロクマの親子と会い、北極圏に入った。
2007.7.11 Dalton Highway MP49 ― Yukon Crossing ― MP97 77km
2007.7.12 MP97 ― Arctic Circle ― MP132 Gobbler's Knob 57km
2007.7.13 MP132 ― MP180 Marion Creek Campground 77km
アラスカを旅行する日本人のほとんどは「ノダノダ」言っているか、「ホシノさん」の書いた本を携えて、遠い目をしている。前者は野田知佑で後者は星野道夫のことだ。大勢で川下りを楽しむツアーなどで、ある地点に差し掛かった途端、日本人客は「この場所でノダさんはクマに遭遇して云々」「あそこではノダさんのカヤックが転覆して云々」などと興奮気味に喋りだすらしい。まったく馬鹿げていると思うが、しかし僕がアラスカを訪れたきっかけは、やはり野田知佑と星野道夫の著作を読んだからだった。ユーコン川に架かる橋を自転車で渡りながら「この橋の下をノダさんと犬のガクは流れていったのだなあ」と感動してしまい、僕も相当なものだった。
キャンピングカーに給水する大きなホースから滝のように流れ落ちている水を、頭からかぶり、顔を洗い、タオルを濡らして全身を拭いた。ボトルに詰めていた古い水を捨てて、新しい水に入れ替えた。ここから次の給水ポイントまでは百八十キロある。思う存分に水浴びを楽しんでいると、本来の利用者であるキャンピングカーが現れて、車体にホースを接続した。アラスカを走っているキャンピングカーは日本では見られない大型の車体が多く、五十人乗りの観光バスくらいの大きさが普通だ。これなら無尽蔵に荷物を積めるし、家族を乗せて何ヶ月でも旅行が続けられる。いつか僕が結婚したとき嫁さんとなる人に「自転車旅行しよう」と誘っても断られるに決まっているが、あるいはキャンピングカーなら渋々承知してくれるかも判らない。
給水所を離れ、砂利道を走り始めてまもなく、三十メートルくらい前方の草むらの中から黒いものが飛び出してきた。体長は一メートル五十センチくらい、脇には小さな黒いものを連れている。アメリカクロクマの親子だった。クロクマは比較的おとなしい性格として知られているが、子連れの母親となれば話はまた別で、いつ襲いかかられても不思議はない。驚いた僕はその場に立ちすくみ、それは母クマの側も同じだったのか、互いに身動きできず固まってしまった。時間にして二十秒ほど見つめあっていたけれど、もっと長かったようにも感じられた。やがて遥かな後方から十八輪の大型トレーラーが近付いてくると、クロクマ親子はのそのそと歩いて道路を横断し、枯れ枝をパキパキ踏み鳴らしながら森の中へと消えた。
クマから逃げるように猛烈な勢いで走り、体力を使い果たして動けなくなる。けれども道端に座ってラーメンを食い、テントを張って一晩眠ると、また元通りに気力と体力が漲っていた。重い自転車を砂利道でコントロールすることに慣れ、森林限界の標高が徐々に下がって、空想していたアラスカの景色に近付いてきたこともあり、遅いながらも着実に北上を続けた。北緯六十六度三十三分のラインを越えて北極圏に入ると、ほとんど一般車両は通らなくなる。完全に無音の世界となった。もしも野生動物に襲われたなら一度はベアスプレーを使えるけれど、二度目はない。そのときはヒッチハイクに切り替えようと思った。
大型オートバイの旅行者と立ち話をする。カナダに向かって走っているそのオッサンは、ブラックベアはそれほど怖くないが、ブラウンベアには気をつけろと言い、ぐあおー、うぐあー、と両手を挙げて吠え真似をした。彼と別れてしばらくすると、今度はドライブしている夫婦と会い、私たちは富士吉田に二年くらい暮らしていた、富士山は本当に素晴しいなどと言う。人里離れるにつれて会話の頻度が増していることが愉快だった。
長く険しい坂の手前で、日本から持参した温麺を茹でて食い、さあ行くぞと自転車を押し始めた途端、通りがかったピックアップトラックから声を掛けられた。坂の上まで連れて行ってやる、荷台に自転車を載せろと言うのだが、僕の自転車は総重量がおそらく七十キロくらいある。二人がかりでなんとか持ち上がったけれど申し訳ない気持になる。スティーブと名乗った五十代後半くらいに見える男は、夏のあいだアラスカに来て「マッシュルーム」を探しているという。何かの隠語だろうかと思っていると、布張りの小さな箱から、それを取り出して見せてくれた。親指くらいの大きさの金鉱石だ。ゴールドラッシュで沸いていた時代から百年も経っているというのに、まだ金を探して彷徨っている人がいる。約束通りに坂を越えたところで降ろしてもらい、写真を撮らせてくれと頼んだ。今回の旅行中に会った一番魅力的な男、スティーブを撮った写真は、帰国後に写真雑誌の月例コンテストに入賞した。
コールドフットの手前では、舗装された路面を猛スピードで駆け下りた。前傾した体に正面から風を受けて、浮き上がるような感覚を覚えるほどの速さだった。坂を下りきったところで速度計を見ると、時速七十八キロが記録されていた。
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ノート 1320080720
森林の北限を過ぎ、ノーススロープ郡に入り、自転車が壊れて、旅行が終わる。
2007.7.14 Dalton Highway MP180 ― Wiseman ― MP221 81km
2007.7.15 MP221 ― Atigun Pass ― MP257 58km
前日に会った夫婦が「良い村だ」と話していたワイズマンを訪れる。ハイウェイからは西に五マイルほど離れていて若干の回り道になるけれど、回り道をするだけの意味があった。ゴールドラッシュで栄えていた百年前には四百人の住民がいた村に、現在では二十人ほどが暮らしている。
Wiseman Museamと看板の掲げられた小屋に入ると、綺麗なお姉さんが「ハロー」と言った。日本から旅行に来ていると話すと、彼女は棚から一つの小冊子を取り出した。この土地で百年前に暮らしていた日本人、フランク安田について書かれた英語の文章だった。飢餓に襲われたポイントバローの住民二百人を引き連れて厳寒のブルックス山脈を越え、ユーコン河畔にビーバー村を開いた彼の功績は、新田次郎『アラスカ物語』に詳しい。お姐さんは両手を振って「He walked, walked」とその場で足踏みをした。小屋から出ると自転車に乗った三人の幼児が遊んでいる。お姉さんの子どもたちだった。一番小さな女の子がトリックを見せてくれるといい、自転車のサドルに両足を乗せながら走ってみせた。
Trading Companyという古くて雰囲気のいい店があった。ゴールドラッシュ時代の一九一〇年に創業し、現在まで細々と営業しているようだ。店内に置かれた沢山の雑貨は、ほとんどが展示品のため購入はできないけれど、よく冷えたコカコーラやチョコレートバーなどが一個一ドルで売られていた。無人の店内には"HONOR SYSTEM" "PUT $ HERE"と書かれた瓶が置かれており、合計九ドル分の食料を買って紙幣を瓶に入れた。土産物のシャツに書かれた文章を気に入り、ノートに書き写した。"If you haven't been to Wiseman, you haven't been to Alaska."
村を離れると、冷たい雨が降り始めた。名前も判らない小川のそばにテントを張って、離れた場所で傘を差しながら食事を作る。雨のなかでクマは匂いを嗅ぎつけるのか判らないが、用心に用心を重ねても安心はできなかった。湯が沸いたらスパゲティを入れ、蓋をして火を止め、ふやけた頃にコンソメを入れて掻き混ぜる、ただそれだけの質素な食事だが何よりも旨かった。テントに入ると、湿気でふやけ始めたノートに、この日記を書きなぐり、枕元にベアスプレーを置いて眠る。右膝が少し痛い。
熟睡したのか全く眠れていないのか、日が昇ったのか昇っていないのか、今が何時なのか、何も判らなかった。雨のなか再び傘を差してスパゲティを大量に茹で、ツナを投入して大量に食う。吐く息が白く、とにかく寒い。右膝の痛みは治まらなかった。歩いたり走ったり、立ち止まったりを繰り返しながらFarthest North Spruceに到着。この辺りに生える木々はみな幹が細く、若いように見えるが、樹齢二百年を超えているものが多い。年輪がぎっしりと詰まっている。熱湯にスキムミルクを溶かしたものを啜り、スパゲティも大量に食うが、ただ旨いばかりで体はちっとも温まらない。
十パーセント、十二パーセントといった急勾配の道でペダルを漕ぐことは諦め、ひたすら歩き続けた。苦しいことに直面すると自分は真逆様に不幸へ落ちていくように思われて、抜け出せなくなる。世界中のサイクリストたちが僕と同様に、あるいは僕以上に困難とぶつかっているはずだが、きっと彼らは乗り切ったあとに「I made it!」と叫んで笑顔を振りまくだろう、だけど自分はそうはいかない、乗り切ったあとには脱力して眠ってしまい悪夢を見るだけだ、こんな旅行はくそくらえだ、荷物も自転車も泥にまみれて砂を噛んで何が楽しいのか、坂を上りきれば天国かもしれないが、ここは地獄だ、もう止めたい、辛い辛い辛いなどと脳内で毒を吐きながら自転車を引き摺ってなお歩き続ける。
坂を上りきったところには天国に多少近いような景色があった。Chandalar Shelfと呼ばれる平坦な谷底にThe North Fork of the Chandalar Riverが蛇行して流れ、それと並行するようにハイウェイが雲のなかへ続いている。這い上がったと思った場所が未だに谷底であることには少しだけ萎えたが、荒んだ気持を宥めてなお余りあるほどの景色が展開していた。緩やかな勾配の谷底平野を奥まで進み、最後の急坂に差し掛かると、再び気持はどん底まで落ちていった。僅か四キロの距離で五百メートルの標高差を上る、気を抜くと自転車が後ろに摺り下がるほどの坂道を、病人のような足どりで進み、三時間かけて乗り切った。
手がかじかんで手袋をなかなか外せない。雪渓を撮ろうとカメラを構えたが低温のために電源が入らなかった。ようやくブルックス山脈を越え、ダルトンハイウェイの最高地点、大陸分水界のAtigun Passに到着。峠を境として唐突に植生が変わってしまい、緑・黄緑・赤茶などの色鮮やかなツンドラは異世界と思われた。その異世界のなかへ慎重にブレーキを掛けながら下りていき、時々すれ違った自動車には笑顔で手を振った。僕が高校の頃から七年かけて膨らませてきた妄想のなかでは、ブルックス山脈の北に広がる広大なツンドラ、ノーススロープ郡が天国のような場所として描かれていたのだけど、本当にここは何もない、丈の低い植物が生えるばかりの広大な土地で、けれど妄想ではなく地に足を着けて走っている。いつしか膝の痛みも忘れてしまって僕は砂利道を暴走した。雨は上がったが未だ泥濘んでいる道を突っ走り、撥ね上げた泥がチェーンに絡まると、時々立ち止まって歯ブラシで泥を落とした。
ガギャン、と強烈な音をたてて後輪がロックした。自転車を降りて点検すると、ディレイラーがスプロケットから外れて車輪のスポークに突っ込み、めちゃくちゃに絡まっている。アルミ製のエンド金具が折れ曲がり、元の位置にディレイラーを押し戻すこともできない。ネジを回してエンドを外すと、弛緩したチェーンとディレイラーが垂れ下がり、これは変速機が完全に死んだことを意味していた。残りの距離をシングルギアで進むことは体力的に難しく、自転車の機構にも無理が掛かる。
道路の端に自転車を停めてしばらく考えた。遮るもののない広野で、寒風に晒されながら考えたけれど答えは出ない。遠くからエンジン音が聴こえ、そちらを見遣ると、一台のピックアップトラックが近付いている。深く考えないまま無意識に右手を挙げ、やがて両手を大きく振って「おーい」と叫んだ。老夫婦の乗った車が、僕の前まで来ると静かに停まった。
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ノート20080721
2007.7.15 Dalton Highway MP257 ― MP414 Prudhoe Bay 251km ヒッチハイク
2007.7.16 Prudhoe Bay ― Anchorage 1020km 飛行機
2007.7.17 Spenard Hostel International, Anchorage 誕生日
2007.7.22 Alaska Backpackers Inn, Anchorage
2007.7.26 Anchorage ― Seattle ― 成田 9706km 飛行機
一年前にアラスカで書いていた日記を、押入れから見つけたのは今年の五月三十日だった。このノートを見つけたときの心境を、俺はノートに書き加えており、たった二ヶ月前に書いたことを今さっき読み返して懐かしい気持に浸った。恥を忍んで、断片を書き写してみる。
他人と向き合わずに自分自身とばかり向き合っていると思っていたがそれさえ中途半端だったようだ。ネット越しの繋がりには実体がなく、身体性が消えゆく不安に苛まれる。何かを発信して返ってくるものを受け取るならいいが、何かを探しに行くのは違うような気がする。続くか判らないが久々にノートに日記を書き始めてみる。部屋の壁、机、ノートなどの平面に向かう。奥行きは要らない。他の何処へ行くでもない。この部屋から動きたくもない。自分の手を動かして紙に文字を綴ることで、身体性を取り戻せるかどうか
他人に伝えるために書かれた文章ではないから、整然としていないし文脈も破綻しているけれど、このとき言いたかったことが現在の自分にはすべて理解できる。他人に伝えたいことって何だろうかと考えても未だよくわからないけれど、自分が自分に伝えたいこと、あるいは自分に伝えてほしいこと、それを考えるのが先だ、とは思っている。
旅行記の続きを書くことにはもうあまり意味がない。北極海沿岸のプルドーベイに着いてからは海を見ることなく飛行機に乗ってアンカレジに帰り、帰国までの十日間を、引き籠もり同然に過ごした。二十三歳の誕生日を迎えたときには冷凍食品のアップルパイを独りで食べ、Spenard Hostelの薄暗い裏庭に張ったテントで茫然としていた。ダウンタウンのBP Innに移ってからは毎日街を散歩したけれど、ベッドに座って読書したり、文章を書いている時間が長かった。
アンカレジを離れる前の四日間、たくさんの魅力的な人間に会い、彼らと話をした。そして考えたことについてノートに書き綴った三万字近い文章を、今になって読み返すと俺には面白いけれど、他人に伝わることは何もないと思われる。
今こうしてウェブに文章を書き散らしている自分は、誰に何を伝えようとしてんだろうか。内省とか沈潜とかいう言葉を隠れ蓑にしながら好き勝手に的外れなことばかりを書いて、自分のためにもならなければ、他人にも伝わらない、独り善がりですらない。書き綴ることには何ら意味がない。何故、書こうとするのか。
何もかもが解らないと思いながら今日もカメラ屋のバイトに行き、仕事が終わると、段ボールの切れ端に大きく地名を書きなぐった。この段ボールを職場の人々に見せびらかし、明日から一週間ほど旅行してくる、高速道路の入口に立って、これを掲げてみせるのだと話した。いつもほとんど喋らない無口な俺がおかしなテンションになっているから、おそらく呆れられるだろうなと予想していたのだけど、店長が思いがけない言葉を発した。
「俺も昔、京都まで自転車で走ったことがあってね。若いうちに何かを掴んでおいでよ」
自己顕示のつもりで発した言葉や、頭上に掲げた段ボールが、思いがけず他人から言葉を引き出した。自分が発している言葉は真空に虚しく吸い込まれるばかりだと思っていたけれど、そうではなかった。間違いなく誰かの耳には届いていて、運がよければ応答がある。書き綴ることによって自身の身体性を回復するというのは、それは他者からの応答によって自身を再確認する作業のことだ、と小難しいようなことを思った。
自分がここに在ると確認するために人と話し、文章を書き、写真を撮り続けていると思う。確認する手段の一つとして旅行があり、自転車旅行という行為自体が目的化されてはならないし、無論、称揚される対象ともなりえない。二十四歳となった自分が明日からヒッチハイクで旅行することも単なる手段に過ぎず、行為自体には大した意味がない。ここまで長々と書いたことを一言で表現するなら、俺は誰かと話をしたい、というだけだ。だからもう旅行記とか日記とかはどうでもいい。また来週。
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