暗い部屋20080510


「受容的」であるとは世界に向かって私を開くこと、世界に私を晒すこと、そして進んで私を解体させる勇気を持つということである。だが、この解体を通してしか私を再創造することもできないのだ。それは主体に対する世界の侵害を率先して求めていくということである。「受動的」であるということと「能動的」であることはこの一点において統一されるはずである。世界は客観的なものではなく、私は堅牢なものではない。相互に浸透しあう白熱する磁場、それが世界である。
(篠山紀信・中平卓馬『決闘写真論』)
カメラ屋で働き始めて八ヶ月、相当な数の写真が目の前を通り過ぎていったけれど、それらが自分の内側に浸透するようなことはなく、ただ右から左へ、上から下へ流れるだけだった。特にハイアマチュアが綺麗に作りこんだ作品であるほど顕著に感じたのだが、切り取られたフレームの外側へ鑑賞者の思念が向かうことを許さない、一面的な見方を強制する作品が多いように思う。
人が写真を見るのは、という言い方に無理があるなら、少なくとも俺が写真を見る理由は、写真を通して外の世界と向き合うためであり、そこに表現者の意図が介在する余地はなく、そもそも表現であってはならない。この考え方を突き詰めるとストレートフォトに行き着くのかもしれないけれど、技巧を全否定するのではなく、撮影者が見方や面白がり方を規定しないことが重要で、シャッターを切るだけですべては終わると書いていた中平卓馬の意図は、おそらくはこれに近いところにある。

もう少し踏み込んで話をすると、写真が発明された当初、それ自体が表現の手段になるとは考えられていなかった。針で開けたような小さな穴から差し込んだ光が、画家の入った暗い部屋の内壁に像を結び、画家は紙に描き写す、ただそれだけのことだった。昔と今と変わってはいないと思う。部屋の外は明るく、部屋の内は暗く、介在するのは部屋の扉で、カメラオブスキュラ(暗い部屋)を持った人間が自由に出入りはするけれど、写真を持ち帰って投影するのはやはり暗い部屋であり、写し出されるのは光だ。
だから部屋は暗くなければならないし、部屋を出て外へ向かうということは、すなわち光を受容すること、自身を外に晒すこと、写真を撮ることに繋がっていくんじゃないかなあ、なんて小難しいこと考えていたら夜になってしまって、部屋の内も外も暗くなったから俺は眠らないといけない。

また明日。

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