20070106
調布の甲州街道で対向車線のセダンが俺とすれちがった直後、ガードレールに突っ込んだ。昨日の日記を書いた十時間後のことで、確率的にありえないことだと思いながらも駆けつけると、ボンネットが半分に圧しつぶされ、白煙が上がり、エアバッグがひらいて若い女性一人と犬一匹が茫然としている。横転はしなかったもののセダンは真横を向き、前の両輪がパンクし、フロントガラスが割れていた。運転席のドアが歪んでおり、外側から無理矢理にあけて外へ出てもらい、怪我の有無を確かめてから警察に通報した。現場の後方にバイクを置き、ウィンカーを光らせた。
俺の上着を羽織らせ、温かい飲みものを渡し、発炎筒を焚いて交通誘導にあたった。ふと気がつくと聴診器を首に提げた男が立っていて、彼はすぐそばの動物病院に勤務する医者だといい、手術を終えたばかりのところに事故の音を聴いたのだという。運転していた女の人に目立った怪我は見当たらず、犬は少しばかり血を流していた。事故発生から十分後に警察官が自転車で現れ、つづけて消防車二台と救急車が到着した。めくれあがった舗装と、分断されたガードレール、車の部品などで歩道が埋めつくされたにもかかわらず、単独事故で済んだことは奇蹟的だった。午前の事故と同様に、簡単な聴取を受け、事故発生から四十分後に解放された。
日常と非日常、という言葉の意味が解らなくなる。一日のあいだに二度も交通事故に遭遇し、救助にあたった。信じたくはないが携帯の発信履歴には間違いなく百十番が残っている。明け方まで体の震えは止まらずに上の文章を書いた。一眠りして朝になった今、驚くほど落ち着いている。これはどこかで経験したことのある感覚だと思い、想起したのは、夏の長期旅行のことで、初めは非日常を楽しんでいたはずが旅を何週間も続けるうちに日常となり、日常と非日常は簡単に入れ替わるものだと気付いた。少なくとも自分の頭は睡眠によっていとも容易にリセットされる。何が起こっても翌朝には日常の一部になる。
そもそも俺が調布をバイクで走っていたのは都心で友人らと会っていたためで、とある説明会に参加し、プロジェクトの内容を理解して、これから関わっていこうと決めた、その帰り途のことだった。二十二歳にもなって今さら演劇に出るなど考えもしなかったが、表現したいことはあっても伝えることが下手なために仕方なく文章という形で代用している面はあり、声と表情とで伝えられるならそれに越したことはなく、何でもいい、他人と関わり、声を出そうと思った。これもまた引き籠りがちだった自分にとっては非日常的だが、すぐに慣れるだろう。
但し、今日や明日に再び事故に遭遇するようなことがあれば、それを日常として受け容れる覚悟は無い。神社に行って御祓いを受けるだろう。そういえば自分は今年の夏で二十三になり、前厄にあたるらしい。今降っている雨がやんだら神社に賽銭でも投げてこようかと思う。
この記事へのコメント、トラックバック